[00:13]パブリック・スクール
僕らがギャラリーを閉鎖することにしたのは、物理的な条件がよくなかったからです。どこのギャラリーも、運営は楽ではないと思うし、僕らも続けようと思えば続けられました。どちらかといえばギャラリーという形態に、興味を失ったんです。約5年の間に展覧会と呼べるような催しを、35 回ほどやりました。僕らは違うことをやりたくなったんです。前年にパブリック・スクールを立ち上げていたから、あの場所をスクールの拠点とすることにしました。いろんなことが同時に起きました。ギャラリーを整理して代わりにスクールを始めました。パブリック・スクールは学びの場です。立ち上げてからもう5年ほど経ちます。最初は単なる、枠組みのようなものでした。作りたかったのは、何かを学びたいと思った人が、それを提案できる場です。教えたい人が提案もできます。そして同じテーマに興味を持った人たちが、ネットや拠点を通じて集まれるようにするんです。スクールの役目は、これらの提案を整理し、人々が集まる場を実際に作ることです。カリキュラム作りは共同でオープンに行います。誰でも参加できるという点でもオープンですが、参加者が内容を決めるという点でも、オープンなんです。今は細かい内容まで説明しきれないですが、大ざっぱに言えばこれがスクールの概要です。ギャラリーがあったLAの拠点で立ち上げました。5年前のことです。今では世界中に 10 箇所以上の拠点があります。どの拠点も同じようなプロセスで運営され、互いに情報交換しています。これまで 500~600 件のクラスが実現し、提案の数は 2000 件を超えます。
[03:18]動機
発足する前にすでに気運は高まっていました。ある日突然沸き上がった動機だったわけで はありません。既に似たことをして失敗していました。僕が運営する AAAAARG の活動の 一貫として、読書会を企画したことがあります。LAの拠点に集まって、サイトで話題にな ったことを、話し合う場を設けたんです。リアルな読書会です。でも、うまくいきませんで した。あまり人数が集まらず企画として続かなかったんです。パブリック・スクールはこう した試みの延長線上に浮かんだものです。でも読書会を企画する過程で、僕は直感的に何か がおかしいと感じました。僕は読書が好きだけど、読書だけが教育だとは思っていません。 僕にとって教育や学びとは、理論を話し合うことだけでなく、実体験を含む包括的なもので す。だから読書会という形は不十分だったんです。これがパブリック・スクールの出発点で す。自分が読書会に感じた限界を超えるために、どんな仕組みが理想的か考え実践しました。
僕は実践的なテクノロジーに興味があります。プログラミングや電子工学が好きです。あとは機械いじりも好きですし、それ以外に読書も書くことも好きです。考えてみれば次々と出てきます。音楽とチェスも大好きです。こうして自分が好きなものを思い浮かべて、改めて感じたんです。それまで自分が取っていた、教育へのアプローチは片手落ちだったんです。自分という人間をトータルに捉えていません。このプロジェクトには、こうした個人的な動機があったんです。
でも他の個人的な関心も動機になっていました。それまで4年間、ギャラリーを運営したこ とと関係があります。僕はキュレーターではありません。展覧会を開催していたのは、作品 を批評するためではありません。それよりも、地元の文化シーンの活性化に貢献することや、 LAにないものを提案することが目的でした。例えばテクノロジーを使ったアートの展示 です。僕はプロジェクターの設定のやり方とか、電子機器の扱いが得意で、いろんなことを 試しました。でもギャラリーは作品を展示する場所なので、キュレーター的な役割から逃れ られません。何を展示し、何をボツにするか決める作業は楽ではありません。展示作品を選 んだ過程は、見せることができないのでね。だからパブリック・スクールが試みているのは、こうした仕組み自体を、排除することなんです。少なくとも、企画者だけが仕組みを作る組 織にしたくなかったんです。僕らの望んだ仕組みは、プログラムに参加するメンバー全員が、コミュニティーとして共同で作り上げるものです。そうすることでカリキュラム作りや説 明責任などの活動を、プログラム参加者の手に委ねるんです。
[08:28]技術的インフラ
技術的なインフラは非常に重要です。プロジェクトを体験する人の最初の接点ですから。サイト上に提案を出し、サイトを通じて実際のクラスを編成します。つまりサイトの技術的なインフラが、イベントを実現するための動力なんです。当初はサイトに頼らず、紙上で管理していましたが、次第にサイトと紙を併用するようになりました。印刷したプリントを拠点に置き、閲覧できるようにしました。プリントへの書き込みを、サイトに反映しました。でも現在は、ほとんどサイト上で管理されています。ソフトは3つのバージョンがあります。最近の2バージョンは、ケイレブと僕がプログラミングしました。まず僕ら自身が多くのクラスを立ち上げました。僕らもスクールの活動に深く関わっているんです。サイト作りでまず重視したのは、スクールをうまく機能させることです。だが、それだけでなくサイトの仕組み作りの部分が、全員に見えるようにしました。あらゆるレベルで、そうしたかったんです。例えばケイレブがデザイン面で何かを決める時も、あるいは僕がプログラミングに関して何かを決断する必要がある時も、ユーザーのアイデアや議論の内容が反映されます。互いに影響し合っているんです。サイトのソフトが仕組みを決定するわけではありません。でもユーザーに選択肢や可能性を示すという点では、プロジェクトの中身に影響を与えます。だからサイトのユーザーは全員、スクールの運営者でありプログラマーでもあるんです。プロジェクトの中身とサイトのソフトは、深く結びついています。美術館などのアート施設は大
抵、ウェブサイトを広報宣伝のポスターのように使っています。あるいはイベントを発表する場として使います。ギャラリーと人をつなぐ接着剤みたいなものです。でも僕らのウェブサイトは、拠点とユーザーの、実際の関係の延長なのです。拠点とユーザー、そしてプログラム。すべてをつなぐんです。
[12:04] aaaaarg.org
最初は小規模でした。AAAAARG は僕らが日常的に行うことの延長にあります。みんながごく普通にやることです。読んだ本や記事を人と共有するという行為です。例えば自分の仕事に関係する書物を読んだりすると、仲間と共有したくなります。建築学校にいた頃はたくさんの書物を読み、同時に作品作りをしていました。読んだことが直接反映されるとは限りません。だが結果として、書物から得たものと作品のアイデアや方向性には、強い関連性がありました。学生は仲間と多くの情報を共有するものです。僕の場合もそうでした。僕は友達と、図書館でいろんな本を読みました。そして本の中に何か面白いものを発見しました。するとコピーして取っておき、互いに交換し合ったものです。まるで秘密の道具を得たような感覚でしたよ。自分が発見した優れたものに、周りが気がついていないと、何か特別な力を授かったようでした。自分だけの宝物を手に入れた気分です。仲間がいれば更に心強くなります。たとえ数人でも、同じ書物を読んだ人とは、共通の参照基準を持っているようなものです。共通の言葉、共通の視点を持ち、理解を深め合えます。それが誰かとプロジェクトを始める、ベースになったりします。情報交換をしたり、実際にコラボするきっかけになることもあります。AAAAARG もそうでした。AAAAARG を始めたのは僕がNYからLAに移り、仕事仲間と物理的に離れたのがきっかけでした。それまでやってきたように、自分が読んだ資料や文献を周りとシェアしたかったんです。仕事上の、共通の言語を維持したかったんです。
[15:08]コンテンツ
最初は主に建築関係の文献でした。でも僕らは、建築というものを広い視野から捉えていました。メディア理論や美術史、哲学の書物も共有しました。建築の文献も多少ね。これが AAAAARG の始まりでした。そこからサイトはどんどん広がり、限られた仲間だけのものではなくなりました。やがて仲間の仲間、更にその友人が加わり、連鎖反応が起きました。これはどんなシステムにも見られる現象で、一種の反響です。オープンな仕組みにも必ずルールが存在し、過去の傾向に影響を受けます。こうしたルールや過去がプロジェクトの方向性を変えます。僕らのサイトを訪れた人たちの中には、最初は興味を感じても、それが持続せず去る人もいました。一方、サイトに心惹かれた人たちはサイトの趣旨に沿った参加のやり方をしました。
[16:59]成長の力学とコミュニティーの形成
こういうプロジェクトは1人で立ち上げたくありません。仲間がいると、よりいい仕事ができます。人数だけの問題ではないんです。仕事を通じて形成される関係や、議論自体が興味深いと感じます。僕は、自分だけの図書館を作ることに興味はありません。誰でも作れます。でも共用のアーカイヴを作ることで、最初は想定しなかった可能性が広がりました。当初は特定のコンテクストを共有することだけが目的でした。でもサイトに来たユーザーが、そこに新しい可能性を見出したんです。ネット上ではいろんなことができます。文章を読むこともできるし、書き込むこともできます。もちろんインターネットには情報格差のような問題があることも事実です。でもアクセスできる情報は多いです。大学の図書館なんかと比べるとね。
ーーあなたの関心は文献を共有する場を作ることだけにとどまらず、コミュニティーや社会的コンテクストを形成し、あるテーマに関して対話を促すことにありますね。文献をダウンロードするだけのサイトなら、内容の感想を話し合ったり、議論する相手は見つかりません。それができることが、当プロジェクトの価値となっていますね。
そのとおりです。これはスクール発足前の僕の体験に根差しています。AAAAARG で体験したことです。サイトが成長するに従い、僕が知らないような文献が加えられるようになりました。すると僕も当然それを読みたくなります。そして読んだあとは、誰かと共有したいと思うんです。AAAAARG でリアルな読書会を企画したのは、興味を感じたテーマで社会的コンテクストを形成したかったからです。アーカイヴを作るのは、図書館を作るのと似ています。でも作ること自体に興味は感じません。それより僕にとって大事なのは、社会的コンテクストに関わる感覚です。単に文献を読むのではなく、社会との関わりの中で活用したいんです。
[20:42]著作権
AAAAARG の発足当時、著作権を意識することはありませんでした。なぜなら、情報を共有 するのは普通のことで、それまでは誰もが自然に人と情報を共有するような時代でした。建 築やアート界では、特に当たり前のことでした。本が好きな人は当然のように本を譲ります。あなたも僕に本を譲りました。僕もたくさんの本を人に譲ってきました。何かの資料を読ん で用が済めば、それを処分するより人にあげることを選びます。しまっておいても意味がな いからです。もう使わないと思ったら、まずは誰かにあげることを考えます。AAAAARG も、 海賊行為という意識はありませんでした。人と情報を共有したかっただけです。何となくシ ェアするというより、プロジェクトに必要だったんです。でもサイトが発展するとシェアの 性質が変わってきます。何かをシェアする時に、対象者があいまいな場合が出てきました。
“この情報を見たい人がいるかもしれないからシェアしてみよう”という感覚です。一方、読書グループなど、目的が明快な場合もあります。よくあるケースです。サイトを通じて本を
配布するのは便利な手段だからです。もちろん参加者がアマゾンを通じて本を買ってもいいですよ。その方がアマゾンは喜ぶでしょうね。でも AAAAARG で用意することもできます。最初から掲載されている場合も多いし、なければアップすればいいんです。こうしてコンテンツもユーザーも増えていきました。シェアすることが、プロジェクトを成長させたんです。AAAAARG を始めて4年経つまで、著作権は話題にも上りませんでした。それまでは何のクレームも来ませんでした。やがてクレームが来るようになると、僕らはそのコンテンツを消しました。単純にね。だが時間が経つにつれ、AAAAARG はサイトの中身よりも、著作権の問題で注目されるようになりました。
[24:22]ファイルシェアの規制
合法だった活動を違法にするためには、どんな方法があるでしょう。グレーゾーンだった領域に白黒をつけたい時、1つは明確な線引きをして告知する方法です。2つ目は技術的な規制を設ける方法です。それまでは可能だった行為を、物理的に不可能にするわけです。例えばファイルを共有する時、元の作成者の承諾がなければ開けないようにします。あるいはクラウドを利用します。最近はファイルを1箇所で管理するサービスが増えていて、情報へのアクセスを管理することができます。例えば Spotify やアマゾンの電子書籍も同じ仕組みです。アマゾンは独自のデバイスやネットワークを持ち、サーバーも自社で管理しています。パイプライン全体を管理することによって、ユーザーの行動に対し監視を強められます。 Kindle の本をシェアするには、ハッキングするしかありません。以前はできていたことが法を破るかハッキングしないとできなくなりました。もちろん常に抜け道はあります。技術的な規制の方が、僕にとっては大きなチャレンジです。特に最近はどこの製品も小型化して対策が難しいです。
――ハッキングの?
そうです。それに遠い国にあるサーバーファームに、不正侵入することはできません。不可能とは言わないけど、厳しいでしょう。ポジティブな見方もできます。より広範な視点から経済を捉え、誰がもうけているかを見極め、矛先を向けることはできます。もうけている人はいます。アップルは膨大な利益を上げています。一方割を食う人もいます。でも作者や出版社がもうからないからといって、安易に読者を責めることはできるでしょうか。読者も経済システムから逃れることはできません。誰がもうけているのかと考えると、必要なのは政治的な議論だと言えるでしょう。少数の企業が膨大な利益を上げています。これらの企業は経済の再編を有利に進めようとしており、娯楽のあり方を変えようとしています。世界中で生産を操作しようとしています。
AAAAARG は著作権問題で注目されましたが、これは経済のひずみがもたらす1つの現象に過ぎません。注目を浴びた事実を、ポジティブな動きに変えることが必要です。資本主義が
人々を搾取する現状を、変えていきたいんです。まったく変な話ですよ。
[28:31]出版界の現状
出版者の役割は変化してきています。ネットやアマゾンのような企業の影響です。本の販売方法だけではありません。書店の位置づけや流通モデルも変わりました。出版社の仕事のやり方も、対応を迫られています。本のライフサイクルにも影響がおよびます。執筆作業から出版社とのやりとり、流通や販売を含む全体の流れです。本のライフサイクルとはこの一連の流れを指します。どんなソフトで執筆しどこに保存するのか。Google ドキュメントを使うのか他のソフトか。電子メールや会計ソフトを使うのも当たり前です。パイプラインそのものが大きな変化を遂げています。今後、出版界がどうなるのか、予測は難しいです。仕組み自体が変化しているからです。
AAAAARG の出発点は、読者が集まれる場所を提供することでした。そして、それぞれの読者が読んだものに、価値を加えられるようにしたんです。AAAAARG も出版の1つの形態でしょう。本は出版社が責任者となり編集したあと、膨大なコストをかけて印刷され 流通します。でも書店に並んだあとも、本のライフサイクルはまだ続きます。一度出版された本は、何十年も存在し続けるんです。読者から読者へと渡り、古本市や中古書店、個人の本棚や図書館を巡るんです。AAAAARG もこうしたライフサイクルの一部だと言えます。
AAAAARG のようなプラットフォームは、出版の新しい形態だと言えるでしょう。これに関しては考えをまとめきれていません。ある作品を公にすることが出版だと考えるなら、それは AAAAARG が最初からやってきたことです。サイトに掲載することで、読者層を広めました。そして本を介したコミュニティーを作りました。これまで出版社が担っていた役割をインターネット上で展開するようになったんです。人間同士の社会関係をベースとしています。
[31:50]読むこと/本
僕の蔵書は膨大です。あらゆる方法で本を入手します。悔しいけどアマゾンで買うこともあります。書店でも買うし、中古書店や古本市も利用します。拾うこともあります。図書館では、しょっちゅう本を部分的にコピーしてました。急いでいる時はコピーするのが一番でしたから。友人からもらった本や学生時代に使った本もあります。ネット上で読んで、プリントした資料もあります。本の読み方や形態に関しては純粋主義者じゃないんです。紙の本という形態にも特別な思い入れはありません。もちろん紙の本は好きだし魅力はわかります。僕が思うに本はどんな形態だろうとそれぞれのよさがあるんです。だから正直なところ、電子書籍やPDFが増えようと本に対する思いは変わりません。入手できる方法で読む。ただそれだけです。最近は読むデバイスもさまざまです。格安で購入したタブレットで読むことだってありますよ。
当然のことだと言えますが、本をスキャンすると時間がかかるし失敗も多いです。そうした
失敗の痕跡が、最終的なテキストに残ってしまうことがあります。スキャンしたものから質 の高いテキストを作るには、実際相当の努力を要します。AAAAARG のファイルにはそうし た苦労の跡が残ってます。誰かが何かをシェアしようと努力した痕跡です。決して楽な作業 ではなく労力が必要とされます。でも、そういうファイルは美しいと思うんです。多少読み にくくてもね。本の量という意味では、僕は読みきれないほどの紙の本を持っています。今 後もきっと買います。恐らく生きている限り買い続けるでしょう。僕が思うに、これは読書 を愛する人間の1つの性です。読みきれないほど抱えてしまうんです。量という点から見る と、インターネットの登場で僕らが所有できる本の量は飛躍的に増えました。でも読める量 は同じだから悩みは変わりません。一方で、以前にはなかった機会が増えたことは確かです。昔は調べものをする時は本のページをめくりました。今はネット上でインデックスを作成 して、大量の本を検索できます。調べたい内容に関連する本や資料を、独創的な方法で表示 することもできます。リストを作ることもできるし、それを他人と共有できます。このよう に読書の新しいスタイルが登場してます。その一方で下火になったり、消えてしまうスタイ ルもあります。例えばじっくり深く読むというスタイルが、以前に比べて減ったことは確か です。これも一種の進化と呼ぶことができるでしょう。進化とは一直線に進むものではない し、また“悪”でもないんです。
[36:44]形式と内容
僕が興味を感じるのは“仕組み”と“コンテンツ”の関係性を探ることです。“形式”と“内容”と呼んでもいいです。僕にとって進行形の課題なんです。両者は独立していません。“仕組み”は“コンテンツ”を入れるための器ではありません。人間の身体と精神が一体であるのと同じです。仕組みというものはコンテンツに影響を与えるものです。人がどのようにコンテンツを利用するかにも影響します。同様にコンテンツも仕組みに影響を与えるんです。
仕組みが興味深いのは、結果を決定しないからです。どうなるかは未知数です。僕が関わっ てきたプロジェクトは、すべてプラットフォームと呼べるものです。これらのプロジェクト には、多くの人が関わっています。僕1人ではありません。どのプロジェクトもどれだけ続 くかは決まっていません。何が起きるかもわかりません。そういう意味では実験的なんです。そこが共通しています。僕にとってはそこが面白いんです。結論がわからないシチュエーシ ョンを作り出すことが面白いんです。プロジェクトに対して明確なビジョンを持つと、それ を実現することに集中してしまいます。途中で予想外のことが多少起きるかもしれないが、結果的に当初描いたビジョンどおりになります。そういうやり方には興味がありません。先 が見えてしまうとプロセスの途中で飽きるんです。その点、前提条件が不安定な長期プロジ ェクトなら、そういう事態は起きません。進行は流動的で結果の予想は不可能です。つまり 新しい展開を生む可能性があるんです。時には生き方を変えるようなことが起きるかもし れません。
僕のプロジェクトは仕組み作りです。ある意味で“仕組みのアプロプリエーション”、仕組み
の流用と言えます。元の形はギャラリーとか図書館や学校です。先の話ですが10~20 年後、美術史家が今の時代を振り返るでしょう。今はアプロプリエーションの概念が進化し、モノの枠を超える過渡期です。今の時代は再生産の概念が変わってきています。アプロプリエーションは今までも存在してきた概念です。呼び方は違ったかもしれません。いろんな形や文化的な影響があったでしょう。でも 20 世紀に機械的な複製の時代が始まり、アプロプリエーションは明確に見えるようになりました。映像やサウンドは配信することが可能になり、ユーザーは自由に使えるようになりました。アプロプリエーションをするためのツールも普及し、世界中で配信される映像やサウンドを、素材として使えるようになりました。これはモノのアプロプリエーションです。今は、経済が商品中心の体系からシフトしています。商品の生産や販売、消費だけでは語れません。今の政治経済を見わたすと、間違いなく複雑化しています。金融化の動きが加速し、デリバティブ取引なども進化しています。アプロプリエーションが昔から存在するものならば、時代に合わせてやはり変わっていくものです。それは仕組みのアプロプリエーションです。モノではなく仕組み自体が流用されるということです。僕はこうした点に注目するプロジェクトに情熱を感じます。仕組みのアプロプリエーションは必然です。例えば我々は世界中で写真を共有できます。それまでにはできなかったことで 100 年前には決して考えられませんでした。そしてその次に Facebook で同じような現象が起きました。Facebook はいつの間にか登場し、億単位の人々の行動に影響を与える仕組みとして、世界中で定着しました。僕が思うに、今アプロプリエーションはこういう規模で捉えるべきです。巨大なシステムで起きていることとして考えるべきなんです。だけどそうすることによって新たな疑問も湧きます。こうした現象を何と呼ぶのか。またアプロプリエーションに関連した法的枠組みも、問題となるでしょう。
字幕制作:東京都写真美術館 第9回恵比寿映像祭